台風15号の記憶:被災3日目

この記事は令和元年9月8日(日)から9日(月)未明にかけて襲来した台風15号(令和元年房総半島台風)時のブログ記事を移行したものです。当時の状況を風化させないため、手元の資料から作成しました。


9/10(火)
「家の屋根が吹き飛んでしまっている。とにかく来てほしい」と地主さんから電話で連絡がありました。別の人から携帯を借りたらしく、折り返しても会話できず。自宅の電話番号は不通状態。

状況が良く分からないのでネットの情報を探してみると、Cafeエドモンズ(金谷)のFacebookで2階の屋根が全て吹き飛ばされて吹き曝しになった写真を発見。信じられない光景に大変なことになっていることがはじめて分かりました。鋸南麦酒のFacebookではドコモ以外の携帯の電波が届いていないこと、停電状態で充電が厳しいことが周知されていました。

慌ててTwitterを見てみると完全に被災地の様相を呈しており、町議の笹生あすかさんのツイートから実家の両親と必要なものを準備しました。会社は午前中は外せない打ち合わせがあったので、急遽PM休を取ることに。

9/11(水)
両親が準備した荷物をクルマに積んで父親と2人で昼過ぎに東京を出発しました。家がどうなっているのか分からず、最悪全壊していることを覚悟しました。瓦礫の後片付けを炎天下でやることを考えて用意したのはブルーシート、ロープ、ガムテープ、軍手、長靴、新聞紙、服装は長袖長ズボンでサングラスと防止、水分補給のお茶は水筒4本に入れました。

向こうで何が必要なのかもわかりませんでしたが、とりあえず災害用のペットボトルと滝の不動尊の水汲み用にしていた20Lのタンクに水を一杯に、それと電池、勝山の久七でもらっていた発砲スチロールの箱に近所のまいばすけっとで買ったロックアイス4kgを詰め込んで救援物資に。途中、川崎の島忠でブルーシートを買い足しましたが、業者が買って被災地に送っているらしく、小さなものしかありませんでした。

アクアラインを通って鋸南町勝山へ向かいます。
途中、ラジオで富津金谷ICと鋸南保田ICが閉鎖との情報があったため、鋸南富山ICから勝山へ向かうことにしました。

木更津、君津辺りまでは大きな災害があったように見えませんでした。富津中央IC近くの採土場のフェンスが大きく倒れていたのが、初めて目にした被害らしい被害でした。そこから竹岡、金谷と来て、鋸山トンネルの入り口で山の木々がなぎ倒されている状況を確認、相当すごい風が吹いたのだということが実感されました。

普段使っている鋸南保田ICは閉鎖中、助手席からはブルーシートが料金所にかかっているのが見えたそうですが、私は運転手なので分かりませんでした。

そこから大帷子、大吉、中佐久間と3本続くトンネル内は照明なし、もしくは最小限で停電中ということを実感させられました。「高速を出るときにETCは使えるのかな?」と思いましたが、そこは問題なし。出口の信号も使える状態でした。

鋸南富山ICからまっすぐ勝山の町へ。最初は田園風景が続くので強風の影響は分かりませんでしたが、見えてきた家々の屋根が損傷し、ビニルハウスが倒壊し、信号は不通ですごいことになっているのが分かりました。でもそれは序の口で、鋸南町役場付近の住宅街は屋根だけでなく壁も崩壊して剥き出しになっているような家がそこら中にあり、テレビで見た震災の被災地と同様の光景が広がっていました。

不通状態の内房線の踏切を渡り、国道127号線の佐久間交差点は信号が停電なので、身振り手振りで譲り合いながら通行しました。商店街には入らず大六海岸から竜島を目指します。安房勝山駅は屋根の半分ほどが飛んでいましたし、ガソリンスタンドとファミリーマートは閉鎖、大六海岸に入ると海岸線はゴミで埋め尽くされ、海沿いのコロッケカフェも建物が損傷している様子でした。

竜島漁港付近にクルマを止めて、まずは地主さんのお宅へ。
周りの惨状は先の記事で紹介した通りです。地主さんのお宅も1部屋で窓が粉砕されており、応急修理でブルーシートを張っているところでした。あちらも連絡が途絶した地元を心配した息子さんが駆けつけて作業を手伝っていました。小さい大きさのブルーシートがちょうどクルマにあったので提供しました。

「ウチは1箇所だけで済んだんだけど、隣の家なんか酷いんだよ」とのこと。「東日本の震災の時だってこんな事にはならなかった」という言葉が被害の大きさを物語っていました。

幸いにして竜島は佐久間ダムからの水道がそのまま来るので断水することは無かったそうです。ガスもプロパンなので問題なく、食料も農家なので大丈夫とのこと。大変なのはとにかく停電で、冷凍室の氷がなくなりかけていたので、東京で準備した氷は喜んで使ってもらいました。

田舎のことゆえ隣近所の親戚付き合いが濃密で、みんなで助け合っていますが、過疎で空き家も多いのです。「この家も親戚なんだけど手が回らなくてそのままなんだよ」という家も少なくないようです。

我が家の被害状況は屋根瓦が飛んで室内が浸水し、強烈な風で砂まみれ、泥だらけでしたが、この様子はまた別に記事にします。
勝山に到着したのが15:00で、そこから3時間ほどは家を空けて空気を通し、箒で砂を掻き出したり濡れた畳を上げたりして終わりました。このとき電気が復旧したときに備えてブレーカーを落としておきました。

屋根にブルーシートをかけるのも、馴染みの工務店は手が回らず、近所の他の職人さんにも声をかけてもらったそうですが、それでも数日は待たないといけないとのことでした。

作業中に防災サイレンが鳴り響き、火災発生を知らせました。その時は「何だろう?」と事情が分かりませんでしたが、家に帰ってからネットを見ると、佐久間の復電した地域で、復電に伴って火が出たようでした。

夕方17時半になると辺りは暗くなってきます。停電中で真っ暗になるので急いで戸締りをして作業は終了。家の周りの折れた木々や落ちた瓦の始末、砂を全て掃きだして復電後に掃除機を掛け、雑巾掛け、泥だらけの棚や机も綺麗にしなければなりません。週末の3連休は毎日通って後始末になりそうです。

18時に作業を終了して、その後は避難所になっている鋸南小学校へ向かい、救援物資の水と電池を渡してきました。名簿を見ると24番目でしたが、帰ってネットを見ると28番の人もいたようでした。鋸南小学校の体育館、町役場は電気がついていましたので、昼間のうちに復旧したようですが(思い返せば火災発生のタイミング)、内房線から海側は依然として真っ暗でした。

そのまま鋸南富山ICに入って東京へ帰ってきたのが20時前でした。

今日、13日(金)の時点で徐々に情報が広まってカメラの取材や支援物資も集まってきており、電気も復旧しつつあるようです。町役場も少し体制が整ってきたのか、義捐金の受付もふるさと納税を使って友好都市の辰野町がおこなっているとのこと。義捐金は早速送らせてもらいました。この記事をごらんの皆様もご協力をお願いいたします。

3連休は家の片付けと共に町の様子も写真に収め、できる限り情報発信できるようにしていきます。