日本寺の歴史を探る③ 近代編

2023年1月8日

復興時代

阿部浩千葉県知事

明治維新後、荒れ果てていた日本寺ですが、明治30年代に阿部浩千葉県知事の提言で鋸山日本寺保存会が結成されました。廃仏毀釈によって誰からも見放されていた日本寺復興は此処から始まります。

明治30年(1897)安房郡達第37号により、元の寺域15町のうち6町が日本寺境内として認められ、残りは引き続き公園地となりました。

千葉県は勝跡保存費として1000円を拠出し、保田町も300円、元名区で200円を拠出して堂宇の改修、石畳の敷き直し、登り道の改築などを実施しています。

李埈鎔

明治35年(1902)に日本に亡命中だった朝鮮王族の李埈鎔により、仁王門に「乾坤山」の扁額が掛けられました。これは知人を通じて揮毫を頼まれたもので、日本寺を再興しようという機運を物語るものだと言えます。

李埈鎔の祖父は大院君で、朝鮮の近代化のための改革を行ったものの、守旧派の反発を受けて国外追放された人物です。李埈鎔も日本留学中に帰国できなくなって館山の北条町に滞在していました。

千五百羅漢像は明治初期の廃仏毀釈により心無い人たちにより多くが首を落とされたと言われています。また、羅漢の首を落として持ち帰って供養すると願いが叶うという迷信があったり、日露戦争の時には出征兵士が大将首が取れるゲン担ぎだと首を落としていったという話も残っています。山中には、鋸山へ遊びに来た中学生が、首を持って帰ってから家族全員が病気に掛かって謝罪している石碑も残されています。

日本寺の心字池

これら結果、千五百羅漢の多くが首を落とされた状態でしたが、大正4年(1915)、地元出身で東京で彫刻を学んでいた村上虎之助が羅漢復興に名乗りを上げ、門人数人を率いて山に入り200日程かけて390の石仏を新たに制作し、270の石仏の修繕を行いました。

一連の日本寺再興の運動を顕彰する「鋸山再興之碑」が心字池付近に残されています。

他に面白いところとして水仙羅漢が大正5年に建立されています。日本寺のある鋸南町は日本一の水仙の里として有名ですが、この水仙の栽培を広めた東京の生花問屋の内田太郎吉という人物を顕彰するものです。この羅漢像は通天窟の近くに格子の窓が付いた状態で安置されています。

大正6年 乾坤山日本禅寺真図

大正6年(1917)には現在の内房線が開通し、海水浴客が増え、日本寺も羅漢の寺として観光スポットとして再び有名になりました。翌大正7年(1918)には朝香宮、東久邇宮両殿下が鋸山に登るということもあり、これも観光地として鋸山・日本寺が有名になっていた証左であるといえるでしょう。翌年には保田町の有志により梅、桜が1000本寄付されています。

こちらの絵図は大正6年時点の日本寺の様子を描いたものです。江戸時代にあった日牌堂や地蔵堂がなくなると共に、山中に「石切り場」の文字が見えます。

明治になってから近代的な石造りの建物建設に鋸山の「房州石」が多く使用されるようになり、石切り場が境内にも作られていたようです。ここから石材を搬出する石材路が描かれており、心字池から先はトロッコになって海岸まで搬出しています。

大正12年(1923)の関東大震災では、強烈な揺れによって羅漢像が多数転倒/落下して大きな損害を受けました。

大火と戦争

昭和14年(1939)11月26日午後2時ごろ、日本寺で発生した火災は大火となりました。当時、日本寺では教育団体の宿泊研修が行われており、そこでのタバコの火の不始末が原因だったそうです。

これによって本堂、薬師堂、大黒堂、庫院、鐘楼が焼失し、中にあった行基や慈覚大師の作による多くの仏像や聖武天皇や光明皇后が寄進した宝物が失われました。火災は建物だけでなく周囲の山林7-8町歩にも広がり、東京ドーム2つ分という巨大な山火事へと発展してしまったのです。

2年後の昭和16年には真珠湾攻撃があって日本は本格的な戦争に突入し、大火後の日本寺再建の話は宙に浮いてしまいます。

ロープウェイ山頂駅付近に残る高射砲台座跡

東京湾の入口である浦賀水道を眼の前にした鋸山は軍事上重要な場所で、本堂の位置には兵舎が建てられ、ロープウェイ山頂駅付近には高射砲が据え付けられました。

戦時中は米軍の戦闘機による機銃掃射も行われたと言われています。

戦後の復興

戦争が終わって3年後、昭和23年(1948)に皇太子明仁親王殿下(現上皇陛下)が鋸山の登るということがあり、これが日本寺にとって戦後の始まりとなります。大火で焼失した本堂跡に建てられた兵舎は仮本堂として再利用されました。

昭和25年(1950)には宗教団体法人法により、公園地となっていた日本寺の境内の残り土地が日本寺に戻ってきました。しかし同時に新憲法下での政教分離の原則によって、日本寺の復興に町がお金を出すことが出来なくなってしまいます。

日本一高い展望塔
鋸山タワー

昭和32年(1957)に観音堂を茅葺から瓦葺に改修、昭和34年(1959)に地獄覗き付近にある瑠璃光展望台が建設されます。翌昭和35年は久里浜と金谷を結ぶ東京湾フェリーが就航し、鋸山山頂には鋸山タワーが建設されます。

昭和33年に建設された東京タワーより高いということで「日本一高い展望塔」を称したもので、現在は撤去されています。

完成当時の百尺観音

昭和37年(1962)には現在も稼働している鋸山ロープウェイが開通し、同じ年には羅漢首繋ぎ事業が始まりまり、首を再び落とされないように翌年から羅漢像の前には鉄柵が設けられました。昭和38年(1963)には日本寺後援会が発足、昭和41年(1966)には百尺観音が完成。

さらに昭和44年には大仏の復元工事が完了します。高さ31mで鎌倉や東大寺の大仏より大きな日本一の大仏でした。(富津の東京湾観音、牛久大仏など、より大きな大仏が後に作られましたが、磨崖仏としては現在でも日本一を誇ります)

復元工事中の大仏

日本寺の大仏は薬師如来像となっており、これは日本寺が薬師如来の寺であることに由来します。大仏が手に持っている壺は人々の病を癒す薬の入っている壺なのです。

実は戦前の絵図には、現在聖徳太子像と維摩窟がある辺りに羅漢の絵があるばかりで、維摩も聖徳太子も描かれていません。どこかの時点で増えたのだと思うのですが、私は大仏復元工事のタイミングではないかと思っています。

聖徳太子は四天王寺に悲田院と施薬院を設けて貧しい人々を救済したと言われており、これが光明皇后の悲田院、施薬院のエピソードと重なります。また、聖徳太子は『維摩経義疏』を記して維摩経を研究したと言われており、その流れから維摩像も置かれたのではないでしょうか?(あくまで私の想像ですが)

昭和50年(1975)には鋸山有料道路が開通し、マイカーで鋸山の山頂まで登れるようになりました。

平成元年(1989)にはインド政府より聖菩提樹の苗木が送られます。これは門外不出とされていたのを先代藤井徳禅住職が特別に送られたものです。この木は大仏の左手にあって見ることが出来ます。

平成19年に再建された薬師堂

平成17年(2005)には大火で焼失した大黒堂が再建され、2年後の平成19年(2007)には薬師堂が再建されました。

薬師堂は鎌倉時代の禅宗様式で作られており、法隆寺五重塔の解体修理で「最後の宮大工」と称された西岡常一氏の唯一内弟子である小川三夫氏の作になります。

中には薬師如来像があり、その両脇に日光菩薩、月光菩薩の木像、さらにその前には十二神将の木像が並んでおり、薬師堂としての形式が整えられています。

現在は2025年の日本寺開山1300年を目標に、焼失した本堂の建設が行われています。