日本寺の歴史を探る②江戸時代編

2023年1月8日

草創時代

日本寺について、はっきりしたことが分かるのは江戸時代からになります。慶長16年(1611)時点では鋸山の山腹に薬師堂、山麓に薬師堂別当として地蔵院が存在しており、薬師堂については近郷の信仰もあったようで、安房の大名である里見氏から薬師堂造営料として15石を貰っています。

この頃の日本寺は冨浦にある正善寺配下の修験寺であったそうです。鋸南町史によると開基善堯、その子天堯が日本寺におり、天堯が曹洞宗に帰依して子の門匡を延命寺の僧侶である門渚のところに弟子入りさせたことから、日本寺が天台宗から現在の曹洞宗に代わったとされています。

曹洞宗に代わったのは万治元年(1658)で、開山は延命寺10世で中興の祖となった善照北州門渚です。延命寺は里見家の菩提寺でもある由緒ある寺で、門渚は後に曹洞宗大本山である越前永平寺28世となっています。

2世門匡は改宗にあたり自分の師匠を開山として招待したと考えられます。開山に高名な人物を招待するのはよくある事例で、実質曹洞宗としての日本寺の歴史は門匡から始まったと言えます。

原更山の石香炉
日牌堂にある僧侶の象

門匡は山麓にあった地蔵院を元名の集落に近い平那山西麓(字「寺畑」)に移動させ、「安房国鋸山日本寺薬師如来略縁起和讃」を記して人々に配り、薬師堂の再興も図りました。千五百羅漢エリアの日牌堂には「原更山」と彫られた石香炉があり、平那山に地蔵院が移ったころに使われた山号とも言われており、そうするとここに祀られている石像は門匡かもしれません。

寛文5年の文字が残る庚申塚

現在の仁王門付近に寛文5年(1665)の庚申塚が残っており、門匡の布教のお陰で、地域の人々が薬師堂を訪れて信仰を集めていたことが分かります。

日本寺の仁王門

その仁王門の建立は元禄7年(1694)で、現存する日本寺の建物の中では最も古いものになります。

中には慈覚大師作の仁王像が安置されており、この門は4世然室龍廓によって建立されました。

龍廓は門匡の縁起を補強する形で「略縁起」を作成し、元禄10年(1697)11月8日に平那山地蔵院の名前を廃止して大福山日本寺と統合しました。

現在の日本寺も本堂と薬師如来を祀る薬師堂は別になっていますが、その形で日本寺が成立しているのはそうした背景があるようです。

守成時代

4世龍廓の後を継いだのは5世貫刹祖道でした。元禄13年(1700)に建立された観音堂(現存)は祖道の時代の建物です。

この時代、正徳3年(1713)には元名村民とのトラブルが記録されています。山中での焚火、牛馬の放牧、下草刈りなどを禁止する高札を掲げ、2年後の正徳5年には寺社奉行に訴えて裁判となったのです。

このトラブルは尾を引いたようで、祖道の後を継いだ6世貫山円峰も享保4年(1720)に再び裁判を起こしています。この時の訴状によると日本寺の檀家2軒のうち1軒が離れ、祭礼の時に日本寺まで来ていた氏子が来なくなり、元名村からは薬師堂の修繕費も出されていないという、深刻な対立があったことが分かります。

さらに円峰の兄弟弟子である源秀が、麓にある岩殿観音にて岩殿山日本寺を名乗って大福山日本寺に対抗するなど泥仕合というべき状況となりました。

しかも裁判は日本寺の敗訴となり、岩殿観音や山麓の集落は元名村の支配となります。後の史料には、岩殿観音は元名の存林寺が別当であると記されています。岩殿観音は戦前まで続いていましたが、現在は信仰する人もいなくなり、かつての御堂が朽ち果てた姿になっているそうです。

いずれにしても薬師堂及び日本寺はこの時代、堂宇の修復もままならないほど衰退し、深刻な危機を迎えていました。そしてその危機に立ち上がったのが9世高雅愚伝になります。

隆盛時代

高雅愚伝を祀る通天窟

高雅愚伝は延命寺で修行をし、明和8年(1771)43歳で日本寺に着任します。

愚伝は元名村民との対立を解消するため、平那山にあった日本寺を薬師堂のある山腹に移動させ、自らも鋸山の山中に居を構えました。平那山にあった地蔵本尊も移動させ、観音堂を建てて岩殿観音に対峙させます。昭和14年に焼失する前の薬師堂は、この時愚伝が建立したものではないかと言われています。

愚伝によって建てられた観音堂は安永3年(1774)6月8日に完成し、盛大な法会が営まれ村民とも和解することになりました。着任から3年4か月のことです。

続いて安永9年(1780)、五百羅漢建立の事業を始め、6月8日より祈祷を開始。自ら伊豆へ行って石材を求め、8月から上総桜井の石工 大野甚五郎により羅漢千体造工に着手します。15石の寺領の他は檀家を持たない日本寺にとって、この費用を賄うことはできず、江戸で大々的に寄付を募ることにしました。今でいうクラウドファンディングで費用を集めたという感じです。

施主方凡例
一、十六大羅漢           代金3両
  座像御丈 3尺余 一体につき
一、五百羅漢           代金1分2朱
  座像御丈 1尺5寸 一体につき
一、毘沙門天等四天王       代金3両2分
  立像御丈 4尺5寸 一体につき
一、本尊阿難迦葉         代金未限
  御丈未定
一、中羅漢            代金1両2分
一、天台橋            代金未限

羅漢は釈迦の弟子達のことで、釈迦入滅から弥勒の世が来るまで輪廻の中で人々を救い続ける聖者です。愚伝作の『五百羅漢応現記』には「この世の福徳を願うのには羅漢尊者が一番である。(中略)私は不肖の身ではあるが丹精込めて羅漢に祈る。諸方の善男善女、共に力を合わせて羅漢に祈ろう」と呼び掛けています。

そしてその後ろに羅漢建立に必要な代金の価格表が添えられているのが面白いところです。ここにある十六大羅漢とは羅漢の中でも特に仏教を守り人々に広めることを託された特別な存在で、「(1)賓度羅跋囉惰闍(びんどらばらだじゃ)」「(2)迦諾迦伐蹉(かなかばっさ)」「(3)迦諾迦跋釐堕闍(かなかばりだじゃ)」「(4)蘇頻陀(そびんた)」「(5)諾距羅(なくら)」「(6)跋陀羅(ばっだら)」「(7)迦理迦(かりか)」「(8)伐闍羅弗多羅(ばざらほったら)」「(9)戍博迦(じゅばか)」「(10)半託迦(はんだか)」「(11)囉怙羅(らこら)」「(12)那伽犀那(ながさいな)」「(13)因掲陀(いんがだ)」「(14)伐那婆斯(ばなばし)」「(15)阿氏多(あした)」「(16)注荼半託迦(ちゅうだはんたか)」の16人をいいます。普通の羅漢像に比べるとサイズが大きいので、探しながら歩いてみると面白いと思います。

千五百羅漢エリアの日牌堂付近

最初の発願から3年後の天明3年(1783)に千体が完成し、愚伝は百日間羅漢建立成就供養を厳修しました。

もともとは千体でしたが思った以上に寄付が集まって200体が追加され千二百羅漢と称され、後の時代に300体が追加、愚伝以前からあった古仏53体と合わせで現在は千五百羅漢と呼ばれています。

百体観音

さらに坂東観音33+秩父観音34+西国観音33の百体の観音立像を中央の岩窟に安置しています。これも愚伝により建立されたものです。観音様は衆生の願いを叶えるために33の姿で現れると言われています。

日本寺で実物を見ると観音様の台座に「坂東十一番」というように番号が振られているのを見ることが出来ます。

日本寺の移転、千五百羅漢造営の後、愚伝の行った事業が大仏建立になります。この計画は寛政元年(1789)頃から開始され、羅漢像を彫った大野甚五郎により制作が開始されますが翌寛政2年に幕府の命令で工事中止となります。

恐らくこの責任を取る形で愚伝は63歳で呑海楼に隠居します。呑海楼は昭和14年の大火を生き残り、現存しています。(現在非公開、コロナ前はここで抹茶を頂けました)

江戸と木更津を結んだ木更津船

羅漢造営によって、日本寺は一躍観光スポットとして脚光を浴び、多くの参詣客で賑わうことになりました。

当時、江戸と木更津の間は木更津船と呼ばれる定期便が運航されており、江戸から旅行するのには日本寺は丁度良い位置にあったのです。

なにやらアクアラインの開通によって賑わう現代の鋸山と似ていますね。

愚伝が引退した寛政2年は小林一茶が初めて日本寺を訪れた年です。これ以降、一茶はたびたび房州を訪れ、地元の人たちに俳句を教えながら自らも句を詠んでいます。一茶の詠んだ「阿羅漢の 鉢の中より 雲雀かな」は日本寺の羅漢像を詠んだものです。

愚伝は文化9年(1812)8月20日に亡くなります。「鋸山春秋五十年 楼台花月倚簾前 生涯自是如雲霧 此月随風向別天」という漢詩が愚伝の遺偈です。

愚伝の死後、12世老山伝翁は愚伝を顕彰するため、中興開山堂として通天窟を建立します。中央に愚伝の石像、左右には道元禅師と瑩山禅師の石像があり、入口の石柱には愚伝の遺偈が刻まれています。

伝翁作の「山中勝蹟誌」

伝翁は通天窟の建立の他、文化14年(1817)に「安房国鋸山薬師如来略縁起」「羅漢応現記」「山中勝蹟誌」を出版するなど、引き続き日本寺のPRに力を注ぎました。「山中勝蹟誌」は日本寺境内の名勝18ヶ所をリストアップして一言メッセージを添えたものです。

このメッセージは日本寺境内の案内板に記されているものです。また、これを元にして後に日本寺三十六景が選定されたりもしています。

伝翁は他にも日本寺の山号「大福山」を「唐竺山」に変更することも行っています。

文政12年 安房國鋸山日本襌寺真景方角圖繪

伝翁時代の文政12年に記された日本寺の絵図がこちらになります。黄金石、羅漢寺標柱から左に行くと岩殿山の観音があり、直進すると無字門を通って現在と同じ日本寺の表参道を通ります。

仁王門を潜ると右手には海中出現の梵鐘(現在非公開)があり、その先に観音堂があります。観音堂の先には薬師堂があり、左に向かうと大黒堂、稲荷社を経て本堂があります。大黒堂、本堂、薬師堂、稲荷社は昭和14年の大火で焼失してしまっているのが惜しいところです。

本堂の先には現存している吞海楼、そこから階段を上がっていく途中に金比羅宮があり、その先に通天窟。そこから弘法大師護摩窟、石橋、不動滝は同じですが、その先は坐禅石、現在の維摩窟には羅漢の絵が描かれているものの、聖徳太子像はなく、維摩窟の名前もありません。

日牌堂エリアには日牌堂と地蔵堂の建物がありました。そこから左手を行くと薛蘿洞、通天関のトンネルを経て奥の院無漏窟に至ります。

日牌堂から右に進むと白骨祠があり、そこから汗かき不動、百体観音には秩父、坂東の他、相模観音の文字もあります。そこから二王門(現二天門)を抜けると西国観音、その先に十州一覧台となっています。十州一覧台は現在山頂駐車場の先に在りますから、場所が江戸時代から変わっているようです。

修復前の大仏

ちなみに現在の大仏の場所には「十丈余自然仏石」とあり、制作途中で放棄された大仏が記されています。

この状態の大仏の姿がこちらの写真になります。輪郭は分かりますが顔はのっぺらぼうで、大仏様の手のひらに載って記念撮影をしている貴重な1枚です。

木が生い茂っており、戦前の観光案内では「大仏様の頭は五分刈りになっている」などと言われていました。

衰退時代

伝翁の後を継いだ13世寂庵大静の頃は、愚伝の死後29年が経過し、建物の傷みが目立ち始めます。大静の時代には梁川星巌や鱸松唐など、文人が変わらず日本寺を訪れて鋸山の歌を詠むなどし、天保15年(1845)には源氏不動の石碑が建立、山号は「唐竺山」から現在の「乾坤山」に変わりました。

安政4年(1857)には観音堂の改修を行っていますが、世の中は次第に幕末の動乱が始まっていきました。

14世徳庵大円の頃に日本寺は明治維新を迎えます。大円は明治元年(1868)に諸堂の修繕を行いましたが、幕末の混乱する江戸では愚伝の頃の様な費用は集まらず、明治維新によって15石あった寺領も手放すことになります。

明治6年(1873)に太政官達によって鋸山は全山公園と指定され、日本寺の土地ではなくなります。廃仏毀釈によって羅漢の首が落とされ、堂宇の修復や山道のメンテナンスもできず荒れ放題となりました。

漱石 子規 鋸山探勝碑

明治22年(1889)に夏目漱石が房州旅行で鋸山を、2年後の明治24年に正岡子規が同じく鋸山を訪れます。

夏目漱石はその様子を描いた『木屑録』のなかでツタに掴まって岩をよじ登り、羅漢の様子に感激すると共に「羅漢の奇を観て古寺廃頽して修復せず、礎石が壊れて柱が空しく残り、人気のなく寂しい中で冷たい雨に打たれているのを悲しむ」と記しています。