日本寺の歴史を探る① 江戸以前編

2023年1月9日

日本寺の歴史について

日本寺の大仏(薬師如来)

今回から日本寺の歴史を探るシリーズを何回かに分けて投稿していきます。まずは江戸以前の日本寺の歴史について。

江戸時代以前の日本寺については戦前の時点で史料がほとんど残っておらず、江戸時代の文書自体も数が少ない状態でした。さらに昭和14年の大火によって失われた史料もあると思われます。

大正9年の鋸山研究の論文によれば、江戸時代に編纂された日本寺の縁起として、2世門匡の記した『安房国鋸山日本寺薬師如来略縁起和讃』、4世龍廊の記した『略縁起』、9世愚伝の記した『安房国鋸山日本寺薬師如来略縁起並五百羅漢応現記』、12世伝翁の記した『安房国鋸山日本寺薬師如来略縁起羅漢応現記山中勝跡記一名瑠璃山略縁起』の4つが存在します。

2世門匡の『安房国鋸山日本寺薬師如来略縁起和讃』全文

最も古い2世門匡の縁起は、草創より平安時代までのことを七五調で里人に分かりやすく語ったもので、4世龍廓の縁起は、それをベースに不足分を補って室町時代までを記述しています。以降の縁起は、これを元に羅漢造営の話を付加したものであるため、4世龍廓の縁起を元に日本寺の歴史を紐解いていくことにします。

奈良時代

歌川国芳『木曾街道六十九次之内赤坂光明皇后』

日本寺の創建には奈良時代、東大寺大仏建立で有名な聖武天皇の后、光明皇后がかかわっています。光明皇后は仏教を厚く信仰し、貧しい人々を救済する「悲田院」、病気の人々を治療する「施薬院」を設置したことでも知られています。

「施薬院」においては、自ら1000人をお風呂に入れて垢を落とすという発願を行い、1000人目に皮膚の爛れた重度のハンセン病患者が現れた時にその膿を口で吸いだしたところ、その病人は実は如来の化身であったという話が伝わっています。

如来が東方へ飛び去ったことから、東方に寺を建立することとなりました。聖武天皇は、東大寺建立にも協力した有名な僧の行基に薬師如来を祀る寺の建立を命じます。薬師如来は薬で今を生きる人々の病や苦しみを癒す仏様で、奈良時代から平安時代にかけて日本各地で薬師信仰が盛んでした。「施薬院」も人々の病を癒す施設ですので、薬師如来の寺院建立が相応しいと思ったのでしょう。

薬師寺の薬師三尊

行基は安房上総の山中を捜し歩きました。霊的な岩窟があり、山頂には三つの峯があり、薬師三尊の姿のようであるとして、鋸山に寺院を建立することにしました。薬師三尊とは薬師如来を中央に、日光菩薩と月光菩薩を両脇にセットで配置する形式です。薬師如来は瑠璃光という光で衆生の病苦を救うとされています。

このことから、日本寺境内の峯の中央を瑠璃光山、西側を月輪山、東側を日輪山と呼びます。月輪山は現在のロープウェイ山頂駅付近、瑠璃光山が十州一覧台、日輪山が地獄覗き付近にあたります。

行基は鋸山に来て薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、十二神将の尊像を刻み、中腹の岩窟に安置すると共に、七堂百坊の大伽藍を建立したといわれています。

七堂の7という数字は薬師如来の異名が7つ(七仏薬師)あることに因みます。坊については100のうち34坊54庵、合計88坊の名前までは伝わっています。また、薬師如来は人々を救うために「12の誓願」を発したことから、これを象徴する姿として十二神将を眷族として従えていると言われています。これに因んで日本寺には十二院が建立されたといわれています。

神亀元年に始まった工事は神亀2年(725)の6月8日に完成しました。この「8日」というのは薬師如来の縁日とされており、以後の日本寺の歴史にもたびたび登場する日にちです。

元名海岸の黄金石

光明皇后は絞錦十匹、三十三観音の刺繍による軸物などを寄進し、聖武天皇は黄金5000貫を寄進して日本寺を勅願所に定めました。5000貫の黄金を積んだ船は石舟で、現在元名海岸にある「黄金石」と呼ばれる石がそれであると言われています。

日本寺の建立後、良弁僧正がここを訪れて大黒天の木像を彫ったと言われています。また良弁は行基椎から小磯川に降りていったところにある閼伽井という井戸を掘り、「薬水 目を洗えば明らかなり」と言われています。

平安時代

護摩窟の弘法大師像

平安時代初期、年代は不明ですが弘法大師が日本寺を訪れたと言われています。山腹の岩窟にて百日間護摩を焚いて加持を行い、この場所が日本寺の弘法大師護摩窟になります。

また弘法大師は大黒天の石像を彫り、これが現在大黒堂にて祀られていますが、秘仏とされているため一般には公開されていません。

大黒天は一般の人々に福を授けるということから、日本寺の山号は江戸時代前半まで「大福山」が使用されていました。現在は「乾坤山」という山号ですので「大福山」は使用されていません。

慈覚大師作といわれる仁王像

天安元年(857)には慈覚大師が日本寺を訪れました。この時に薬師如来、日光菩薩、月光菩薩、仁王像、阿弥陀千手十一面観音を彫って行基作の本尊の前仏(普段公開しない本尊の代わりに拝む仏像)としたといわれています。

慈覚大師円仁は伝教大師最澄の弟子で、遣唐使によって唐へも留学した高僧です。慈覚大師作の薬師如来は昭和14年の大火で失われましたが、観音堂に安置されている千手観音と仁王門の仁王像は現存しています。

その後の日本寺については「獅子犬の伝説」と言うのが残っています。山中に一匹の珍しい獅子犬がおり、長年日本寺を守っていたそうです。朝夕の鐘が鳴るときには必ずやってきて勤行の際には寺の衆徒と共に暮らしていたといいます。

ある時、寺の衆徒がイタズラで全山の鐘を一斉に鳴らしたところ、獅子犬はパニックになって山中を走り出し、黄金石の下に消えてしまいました。これをきっかけに日本寺は次第に衰えていったといいます。

鎌倉時代

源頼朝手植えと伝わる大蘇鉄

治承4年(1180)、平家打倒に立ち上がった源頼朝は石橋山の戦いに敗れ、安房へ落ち延びます。

日本寺のある鋸南町の竜島地区に上陸した頼朝は、安房の武士団をまとめ上げ、上総に向かい進軍します。

その際、本名村の名前を聞いて「我が本名を上げるべき良い名前だ」と喜び、日本寺に武運長久を祈願して、願いが叶ったら堂宇を残らず修築すると願書を書きました。

源平合戦は源氏の勝利に終わり、願いの叶った頼朝は養和元年(1181)6月8日(日本寺創建と同じ日)に日本寺を祈願所とし、堂宇を再建し、薬師堂に自筆の「医王殿」の額を掲げました。病気を癒すということで薬師如来には「大医王」の別名があります。

この頼朝自筆の扁額は戦前まで残っていたそうですが、こちらも昭和14年の大火で薬師堂が焼失するのと同時に失われてしまいました。また日本寺の本堂前には頼朝手植えと伝わる大蘇鉄があります。

室町時代

足利尊氏が参篭したと言われる奥の院無漏窟

元弘3年(1333)、鎌倉幕府の滅亡に伴う戦いによって日本寺は炎上し、七堂百坊といわれる大伽藍も灰燼に帰しました。衆徒は奥の院岩窟に薬師三尊や十二神将を避難させ、仏像は無事でしたがお寺の建物はなくなります。その後の再建も捗らず、衆徒も山を降りて村里に逃げてしまったと言われています。

それから10年以上たった貞和元年(1345)3月8日、足利尊氏に夢をお告げを得て安房に渡り、奥の院岩窟に参篭した。多くの霊物が岩洞に安置されたまま朽ちていく様子を見た尊氏は、日本寺の七堂を再建してそこに仏像を移したと伝えられています。

室町時代の話として、あるとき鐘の音が山中に響き渡り、元名海岸付近が光り輝くという不思議な出来事がありました。日本寺の住持である栄東が海に出てみると、波間に梵鐘があるのを見つけます。何事かと思って海から梵鐘を引き上げたのが、現在使用されている日本寺の梵鐘(現在は非公開)になります。鐘には永徳2年(1382)の文字が刻まれていますので、それ以降のどこかでこの鐘が日本寺に来たことになります。

鋸山の金谷と元名を隔てる岬を明鐘岬といいますが、それはこの出来事からついた名前です。日本寺の梵鐘の作者は下野国の名工 卜部助光で、昭和51年に重要文化財に指定されています。