里見氏に所縁のある観音寺

保田交差点から長狭街道に入り、内房線の踏切を超えた先、保田小学校の手前に観音寺という寺院があります。

前々から気になっていたところで、里見義堯がここに陣を構えた際、妙本寺の日我と出会い、そこから2人の交流が始まったという始まりの地でもあります。2人はそこから戦国の激動を生き抜いていくことになります。

案内板を見ると1471年に、安房里見氏初代である里見義実が、新田義貞から拝領した弘法大師作観世音菩薩像を安置したことに始まるとのこと。里見氏は新田氏から分かれた一族で、南北朝で新田は足利のライバルではありますが、近年の研究では足利一門の中に新田氏がいたことが分かっており、里見氏が安房で勢力を伸ばしていく中でその権威を利用して創建したのが観音寺ということなのだと思います。

ぱっと見は普通の神社のような外観ですが、案内板によると茅葺の大伽藍だったものが、保田町役場に隣接していたため、空襲による火災を警戒して昭和20年5月に解体され、規模を縮小して戦後再建されたとのことです。

境内を見学する前にお参りしていたら、寺守のおじいさんに声を掛けられ、中に入れて頂きました。500円で御朱印を頂くと見られるとのこと。

「新田義貞から拝領した弘法大師作観世音菩薩像」もこの目で見ることが出来ました。弘法大師作ともなれば1000年前のものですが、里見義実の頃のものだとしても500年は経っている訳で、貴重な体験でした。

他にも波の伊八が19歳の時に彫った彫刻もあり、日蓮上人の稲村ケ崎での場面を彫ったものなど、かつての大伽藍時代の遺物が掲げられており、見ごたえは十分でした。安房国三十四ヶ所巡礼は令和8年とのことですが、その前であってもお参りであれば中を見学できるとは知りませんでした。

保田の町の中心にあったお寺ということで、境内には各種の石碑が沢山あります。左のものは関東大震災の記念碑で、後面には保田町での震災犠牲者や倒壊家屋数が刻まれています。寺守のおじいさんの話では、この辺りまで津波が来たとのこと。

関東大震災では布良の他は津波被害の記録が無いはずですが、竜島でも津波の話が残っています。元禄地震と混同しているんじゃないかと疑っていたのですが、鋸南町で2件目の津波の話なので信憑性が増してきました。これが事実と分かれば歴史的な発見になります。(専門家の地質調査とかやって欲しい)

右の石碑は鈴木某氏の顕彰碑で、内容を読んでみると保田町に引っ越して、椎茸栽培で東京市場を開拓した人とのことでした。昭和4年に建立され、建てたのは房総生椎茸出荷組合。日本寺にある水仙羅漢の田中翁もそうですが、こういうローカルな歴史というのも面白いですね。

観音寺は長狭街道沿いということもあるのでしょうが、左と中央は馬頭観音の石碑、右はどなたか分かりませんが石仏です。

そしてこちらが忠霊塔。これがあるということが保田地区での観音寺の地位を示しています。建立されたのは昭和28年とあり、明治/昭和の戦没者の氏名が脇にある石碑に刻まれていました。

ということで観音寺の紹介でした。小さなお寺の割には見どころが沢山あり、歴史に興味のある人であれば楽しめるのではないでしょうか。令和元年の房総半島台風と東日本台風で大きな被害を受け、なんとか修復したとのお話も伺いました。土曜日の夕方にもかかわらず、参拝者は私で2人目とのこと。全然人が来ていないのはさみしい限りです。この記事を見て参拝者が増えると良いなあ。