富浦正善院と日本寺
今回の話は日本寺の歴史を調べる上でキーとなる富浦正善院の話です。まだまとまっていないので、メモ的なものとお考え下さい。
『千葉県史料調査報告書 3 (千葉県古文書目録安房国 2)』の中に「田代正満家文書」が収められています。田代家は旧富浦町原岡の愛宕神社の宮司を代々務めてきたそうです。
田代家は伊豆から安房へ移り住み、洲崎神社近くに正善院屋敷跡の地名が残っています。
のち、里見氏の久留里進出に伴い、久留里城近くの愛宕神社に移り、岡本城が築城された際に現在の原岡に移ったと言われています。里見氏からの朱印状により寺領50石を与えられており、これは妙本寺と同じになります。
正善院は江戸時代を通じて安房国内の長狭郡を除く3郡に27ヶ寺の頂点に君臨しており、安房における修験道の中心でした。明治41年に出版された『安房志』によると次のように記されています。
富浦村原岡に在り、養老山と號す。本尊本地延命菩薩、開山神變大菩薩(=役行者)、里見義頼守本尊愛宕大権現は春日作也と云、修験高五十石
また、里見氏の研究の始まりである『房総里見氏の研究』には次のように記されているます。
又是等の使者には飛脚も用ゐたが、多くは山伏か僧侶を用ゐた。北條氏の善徳寺、天用院、武田氏の圓覚坊の如き其例である。里見氏でも平群郡岡本(今安房郡富浦村原岡)の修験正善院が、多く使節の役を勤めたのである(正善院は寺領五十石を受けてゐたが今は廃寺となつてゐる)。之は關所通過其他民間を潜行するに便宜があつた為であろう。
正善院配下として組み込まれた日本寺には里見氏より寺領15石が与えられ、平那山地蔵院の開基である専堯と子の天堯に使われている「堯」の字は里見義堯の「堯」であることから、里見氏とかなり密接なつながりがあったことを伺わせます。
専堯は他の文書で印東主膳と書かれている人物に比定されており、印東氏は里見配下の国人の1つでした。この辺り里見領内の支配と合わせて考えると新しい事実が浮かび上がってくるかもしれません。
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