車力道についての考察

自動車道についての考察をする中で、この道はいつから使われていたのかが気になり始めたので、さらに調査を進めます。

迅速即

本ブログでも度々登場する明治19年の迅速即図です。表示されている道を赤でなぞってみると面白い事実が判明しました。

山行がのヨッキさんが辿った元名ダム(水色)から延びる明治の車力道が存在しておらず、山を一つ迂回した後で尾根の切れ目から再び谷筋に侵入して丁場へアプローチしています。
場所としては山行がで見つかったM28丁場と終の丁場のエリアであり、おそらく明治の前半はこのエリアで採石が行われていた模様です。

もう一つ判明した事実として、日本寺から水平に伸びる線があり、これがドラム缶広場の付近まで伸びています。これは面白い!!
水没丁場付近に存在した車力道を辿っていくと日本寺の境内に出る可能性があります。

存在が予想される車力道

国土地理院で現場を確認してみると、大仏広場から千五百羅漢の階段が伸びているところから、確かに等高線に沿って歩けそうな場所が存在します。

想定される車力道の航空写真

同じ場所を航空写真で見てみると、なんとなく引っ搔き傷のような線が森の中にあるようにも見えます。このルートを探索してみるのも面白そうです。

明治39年の地図

続いて山行がにあった明治39年の地図になります。ここでも引かれている道を赤でなぞりました。

青い部分が20年前の迅速即図に掛かれているルートで、山を迂回するルートから直接谷筋を遡っていくルートに変わっています。山行がで発見された明治隧道はこの時に作られたのでしょう。
尾根の傾斜がきつくて隧道を掘らないと石材を運べなかったという可能性もありますが、敢えて大きく迂回させる必要もないように思えます。

大正10年の地図

続いて山行がにあった大正10年の地図です。
僅かにルートが変更されて丁場大1の崩壊した巨大掘割にむかって直線的に道が作られています。

それと同時に日本寺から水平に伸びていた道がなくなり、尾根を1つ挟んだ反対側の谷筋から真っすぐに山頂へ伸びる道が誕生しました。これこそが自動車道の場所になります。
コンクリート舗装であることから昭和になって作られた自動車道だと考えていたのですが、元は大正時代の車力道、それを昭和30年代に拡張してクルマの通れる道にしたというのが正しいストーリーのようです。

明治22年に夏目漱石が保田海岸で海水浴を楽しんで以来、観光というキーワードが南房総エリア全体で重要になっていきます。
鋸南町を訪れる観光客は昭和の初めにかけて増加の一途を辿りますが、特に大正時代に内房線が開通したことでその数は一層大きなものになっていたことでしょう。

そうした状況で観光スポットである日本寺と労働者の働く石切り場の道を併存させることの不都合が生じたような気がします。

元名石切り場の車力道の全貌(予測)

ということで迅速即図を元に元名石切り場の変遷をまとめてみます。のちの時代に作られた道は青線にしてみました。

まず明治初年に採掘がおこなわれていたのが①と④、そこから②の採掘がはじまり、やがてそれがメインになってルートの改変が行われます。
そこから③の丁場大1,2が拡張されて中心となって大正時代には石祠丁場、丁場大1、丁場大2での採石が行われて新たな車力道が作られる。

大正12年の関東大震災によって丁場大1が使用不能ったことをきっかけに、元名での採石事業は衰退して丁場中での採石が昭和30年代まで細々と続いていくが、そこで石切場の歴史に幕が下りるという流れです。

鋸山の山頂から少し下がった①のエリアは全く探索していないですし、ここを歩いた人の情報もないので全くの推測になりますが、理由もなく山頂まで道を作ることはないので可能性は十分にあると思います。

『鋸南町史』によると鋸南町における採石は江戸時代から、鋸山のある元名だけでなく下佐久間や岩井袋でも行われていたそうです。
文明開化と共に石造りの建物や施設が多く作られて石材の需要が急増、石材業の組合も作られて体制が強化され、明治35年頃から大正元年頃までが鋸山石材の最盛期であったとのことです。

100m近い高さになった巨大な2つの丁場からどんどん石材を切り出していった最盛期、そしてそこが放棄されたことで産出量は減少し、保田町においては大正9年に4万本/約13万円だった産出量が、昭和7年には8500円にまで低下しています。

昭和44年(1969)に発行されている町史では「最近になると、自動車がこれに代り、港まで運ぶようになりました」という記述があり、これは前回考察した自動車道の存在を裏付けています。
1960年代は元名における石切場の最後の時代であったと言えます。