元名石切り場の歴史

元名石切り場探索と合わせ、その歴史についても調べています。文献も限られる中ではありますが、房州石の歴史の中で元名石切り場がどのような位置にあって稼働していたのかを探っていきたいと思います。

石切り場活動前史

江戸時代の房州石は墓石や石灯籠などの用途で採掘されていました。金谷においては専門の石屋が存在して運送を行っていた記録があります。

元名については江戸時代中期の文政6年(1823)の村差出帳に「農業之間、百姓男女、磯草山草又は石かき等助成に仕候」とあり、専門の石屋ではなく農家の副業として石切りが行われていたようです。

開国と房州石

ペリー来航

鋸山の石が一気に注目を浴びるのは嘉永6年(1853)のペリー来航です。江戸湾奥深くまで黒船が侵入するという大事件により、海岸防備の重要性が急速に高まりました。幕府は品川沖に砲台であるお台場の建設を行い、建築資材として房州石が急速に注目されることになります。

安政5年(1858)の日米修好通商条約により翌年に横浜が開港。これに伴い外国人居留地の建設、波止場の整備、税関の建設などが行われ、西洋風の石造り建築のために大量の石材の需要が生まれます。

明治維新後、日本最初の鉄道は新橋ー横浜間のものですが、鉄道敷設に伴う海岸埋立は実業家の高島嘉右衛門によって行われ、ここでも房州石が使われました。明治4年に加地山県が大蔵卿大久保利通宛に請願した文書の中で「当県支配下元名村、岩井袋村、下佐久間村三ケ村の儀は海岸石山多分御座候て、横浜開港以来小民共農間石切出し、同港問屋へ運輸罷りあり候ところ・・・」とあり、横浜開港による石材需要の高まりがこの地域のありようを大きく変えたことが分かります。

明治5年の職業状況には元名村で114軒のうち石工が5軒、本郷村で284軒中石工が9軒となっており、農家の副業だった石切りが、専門業者が生まれるまで拡大していきました。また別の史料ですが明治19年の『大日本国誌』では元名村での石切りについて「借区三千二百坪、営業者13人、役夫128人」とあり、元名・本郷両村併せて1000人もいない当時の人口で、相当の規模で活動していたことが分かります。

横浜開港に続き明治8年には東京湾要塞の建設が始まり、観音崎、富津岬などの砲台建設の他、人工島である第一から第三までの3つの海堡建設も始まります。東京でも西洋風の石造り建築の建物が次々に建設され、房州石の需要は拡大の一途を辿りました。

明治19年の石切り産地のルポルタージュ

明治19年に工学会誌という雑誌において、房州石の産地を巡回した現地ルポの記事が掲載されており、その内容を紹介します。

生地はまず冒頭に房州石について、建物の礎石や溝渫などに幅広く利用されており、東京まで船で数時間で到着できる距離にあるため安房、上総が一大産地となっていることを記しています。

記者は上総湊の売津、竹岡を見学してから金谷へ入り、その盛況に驚嘆しています。巨大な高さの石切り場がいくつもあり、樋道や車力道を使って次々と石を切り出し、運んでいるさまを細かく記録しています。この時点で金谷では毎日400人の人が山に入って石切りの事業に従事していたと言います。

次いで元名を訪れた記者は「南背また石抗多し。中に官地に係るものあり。村民借抗す。南背の山路は広くして緩やかなるが故、大小の挽車、高抗に通ずるを得。従って大石を出すを得。」と記しています。

鋸山の南面には日本寺が広大な境内を持っていましたが、明治になって境内は没収されて県立公園に組み込まれていました。そこで元名村民が県から石切り場の土地を借りて事業を行っていたことが分かります。

また元名側は金谷に比べると山の傾斜が緩やかで大きな荷車で石切り場に入ることも可能であり、樋道によってサイズに制限のある金谷に比べ、より大きなサイズの石を切り出せることを特徴としています。

また「東京にては房州石は上総石に優り、而して元名石は房州石中の最良なるものと言い伝え、生もまた嘗てこれを信じ居りたりしに、今回親しく実地を討尋すれば豈に図らんや、元名の石は金谷石と兄弟にして唯山を後ろ合わせにしたるのみならんとは。」とも記しており、元名石は房州石の中でも最良のものというブランド価値があったことが分かります。

記者はそのあと下佐久間でも広大な石切り場を確認しており「下佐久間村は抗高らずして且村と抗との間近きを以て、運搬殊に易く、村民石肩にして抗より村に出ず。」として運搬の利便性が印象に残ったようです。古老の言によれば戦後までこの石切り場跡は残っており、岩井袋と下佐久間を分ける山を貫通して洞窟があったそうですが、残念ながら戦後の採石によって山ごと消滅してしまい、現在は野球場の更地になっています。

元名石切り場の最盛期

時代は下って大正2年に地質調査所が千葉県内の石材についてまとめた報告書が農商務省から発行されています。ここに記された内容から元名石切り場の姿を探っていきましょう。

ここでは保田町(元名)と金谷町が共同で房総石材組合を組織していることが記されています。金谷側については30余箇所の丁場があり、丁場から樋道(1町半)~車力道(4-5町)~トロッコ(14-5町)を使って2kmほどの距離を運び、港に搬出していることが記されています。

元名側では明治29-30年が年間20万本を産出する最盛期であり、この調査が行われた明治44年には約8万本を産出していたとのことです。この時点ではピークを過ぎてきているようですね。

採石場は鋸山南腹に沿って30近くあり、最大のものは明治17年に開場した関口二郎所有のもので年間1万5000本を産出。次いで明治25年開場で年間8000本を産出する石井勝次郎の丁場、明治30年開場で年間5000本を産出する岩崎丈助及び石井梅吉の丁場が続きます。

房総石材運輸株式会社設立の官報

石材は樋道により1町~5町、車力道により5-14町、トロッコにより10町を運搬し、海岸に運んでいます。金谷に比べると樋道の距離が長く、これは南側の傾斜が比較的緩やかであることに起因しているようです。

ちなみに勝山町(下佐久間、岩井袋)で行われていた石切りは明治30年ごろに年間8万本という産出量を誇りましたが、明治末期のこの時点では枯渇して年間1万本程度にまで減少しています。

トロッコの利用は明治44年発行の『地方資料小鑑 : 千葉県展覧会記念』によると明治36年5月と記されており「工場諸般設備の完成は多く他に匹隣を見ず」とされています。大規模な採掘が行われたことでインフラ投資が行われ、トロッコは他の房州石産地にはない鋸山特有の設備であったことが分かります。

これの為に房総石材運輸株式会社が設立され、その記録が当時の官報に残されています。

元名の石切り場は日本寺に隣接しており、明治40年発行の旅行案内『房総之半島』には次のように記されています。

「所謂羅漢道なる山路より、石材運搬の婦人等が断続幾百人。誼譟騒譁(けんそうそうか)を極めつつ、行きかうそれに辟易しつつ、上る事五六町にして登道あり。更に一気に駆け上がりつつ汗を拭えば、清風一陣。身は一場の幽静たる林泉に立っている。規模小なりと雖も清池あり、石橋あり橋畔の躑躅は緑叢に紅を点じ・・・」

さらに大正10年発行の『山の幸』の記述を引用します。

「石材採取は北面のみで未だ南面に及ぼさないのは風致のためにも、寺のためにも悦ばしいと思つて居ると、忽ち東に峰に人語と斧の聲を聞いた、ついて見ると南面、南歯の一角、既に鶴嘴の閃きがある。北面は鋸歯の根元に切りつけて頂上の鋸歯状を損ぜない様であるが、南面はもう頂上鋸歯の真面に切り込んである、石材の搬路が日本寺の境内を貫通してゐる。これも追々盛になつて、やがては南坂も北面の如くに荒らされて、日本寺は愈々悲境に陥るであろう」

人気の観光地として復活しつつある日本寺と、石切り産業が共存している不思議な光景が存在していたようです。

明治43年の房州石産出状況

明治43年の房州石産出地
明治43年の房州石産出額

この報告書に記載されている明治43年時点の房州石の産地と産出量をグラフにしてみました。産地については年間1万本以上の産出地を太字にしています。

こうしてみると金谷がダントツの1位、保田がその半分で2位となっており、どちらも鋸山から産出することは変わらないので、鋸山が房州石の主要な産地であったことは明白です。

関口二郎

関口二郎

元名石切り場について語るのに欠かせない人物としては関口二郎の存在があります。

関口二郎は明治12年に石材商関口帰一郎の次男として生まれ、家業を継いで同業者に企業合同をすすめ元名石共同販売所を創設。明治40年には先述した房総石材同業組合を結成して金谷側の石材商と共同で事業を行います。

トロッコの敷設を行った房総石材運輸株式会社の官報にも監査役として名前があります。鋸山の石切り産業の中心となった人物の1人ということが出来るでしょう。

元名側で最大の規模を誇る石切り場を保有しており、金谷側にも丁場を開いて活動していたようです。

大正11年には保田町長に就任し通算で3期当選、千葉県議会にも立候補して当選するなど、戦前の保田町でかなりの活躍をした人物であると言えます。

大正時代

時代は下って大正10年の発行された『本邦産建築石材』には房州石のその後の採掘状況が記されています。

金谷においては14丁場が稼働しており、変わらずに房州石最大の産地となっています。稼働中の丁場はかなり古く採石が困難になりつつあるとされていますが、他に丁場を造れる場所も多く石量は豊富とされています。

一方元名においては20丁場のうち半分が休止して10丁場が稼働中。金谷のような広大な丁場は1か所で、他の丁場は小さく、これは岩石の露頭の大きなものがないためとされています。鋸山の形状は北側の方が傾斜がきつく、その分岩肌が現れていて石切り場にしやすいという特徴があったようです。

石切り場から港までは10町ほどで金谷より近く、保田駅まで運んで汽車を利用する方法もあるとされています。

そしてどちらにも共通することですが、「大谷石に比べると運搬コストが高く石質が良くないので需要が減ってきている」とされています。大正11年の『日本産土木建築石材』にも房州石は「大谷石と比べると脆く崩壊しやすい欠点在り」とあり、『工業雑誌34』『高等土木工学 第四巻 土木材料』にも同様の記述があります。

この後に発生した関東大震災では石造り建築の多くが崩壊し、新建材としてのコンクリートの誕生もあり、房州石は次第に斜陽産業化していくことになります。