大仏裏からの道に関する考察

ここでは大仏裏の道に関する歴史の考察を行っていきます。

明治16年

明治16年迅速即図

まず最も古い明治10年代に作成された迅速即図から確認していきます。日本寺から尾根を越え谷筋を2つ超えて水平に移動しているラインが描かれており、これが最も古い大仏裏からの地図です。

注目すべきは急激に傾斜が高くなるラインの手前を水平方向に進んでいることで、目的地はドラム缶広場付近と考えられます。この道沿いには水没丁場1~3が存在しており丁場の作りの統一性から、これらの丁場の活動時期がこの時代ではないかと考えられます。

明治36年

明治36年1/50000地図

続いて明治36年の地図になります。二重点線で描かれているのは里道の中で荷車が通行可能なものを示しており、これが車力道であることは明らかです。日本寺の参詣道は普通の点線で描かれて山頂を目指しています。

ここで注目するべきはその進路で、大仏裏の谷を横断する形で山頂に向かって線が伸びていることです。つまり山頂付近から日本寺境内を通る車力道があるということで、心字池付近にある車力道の跡や、大仏丁場の車力道跡がこれに合致すると考えられます。

日本寺側の道は昭和10年にはなくなりますので、大仏の尾根の反対側にある上の丁場1,2については、この時代に活動していたものだと考えられます。そうすると大仏丁場1,2,3も恐らくこの時代ではないでしょうか

昭和10年

昭和10年1/25000地図

さらに下って昭和10年の地図では日本寺から山頂方向に伸びる道が消滅します。代わりに鋸山観光道路の隣の谷に道が通っており、これが山頂方向に向かって伸びています。

この道は戦後になって改修されてコンクリート舗装となっていますが、そのことから大仏の反対側にある丁場群はこの時期には活動を終えていたということが分かります。

3つの地図を重ね合わせてみる

ということで3つの地図の大仏裏の道を置いてみました。赤が明治16年、青が明治36年、緑が昭和10年になります。

明治後半以降は山頂から元名側に石材を降ろすルートが作られ、これがルートを変えながらも昭和初期まで継続的に活用されていたことになります。