鋸山の道についての考察

地元の方と元名石切り場について話をする機会があったので、元名石切り場シリーズの考察記事をもう1本Upします。

昔は日本寺に拝観料がなく、タダで出入り自由な、町の人たちにとって鋸山が非常に身近な存在であったということです。子供の頃は鋸山の山中を駆け回っていたとのことで、元名石切り場の存在もご存じでした。

日本寺復興のため拝観料を取る様になるのは仕方がないけど、そのために町の人たちと距離ができてしまったなあとのこと。

お話を伺う中で、明鐘岬の岬カフェから鋸山に登る道があったという話が出てきました。歴史の中に埋もれた道が鋸山にはまだ眠っているようで、興味を持って改めて迅速即図を確認してみることにしました。

迅速即図(明治)と現代地図の比較

という訳で迅速即図と現代の地図との比較になります。地図に記載の道は赤色で、現代の地図になくて明治19年の迅速即図にある道を青色でなぞりました。

まず岬カフェの裏を登っていく道についてはロープウェイ山麓駅付近と繋がっていたようです。そこから鋸山に向かっていく道は現在の地図にありません

金谷側の上流から鋸山山頂を目指す道がありますが、台風のために閉鎖されている安兵衛井戸コースの登山道がおそらくこれに相当すると思われます。(現代の地図には書かれていません)

鋸南側では有料自動車道路の入口から谷筋を直進してから登っていき、中腹にある日本寺の大仏口に出るルートがあります。この道があったから自動車道路を作ろうとしたのでしょう。ここは探せば山の中に埋もれているかもしれません。

面白いのは大仏口付近から谷を降りるルートがあることで、これが現代では内房線の鋸山トンネルに到達しています。

あとは山側にあるルートで、これは前回の考察編で述べた部分になります。

こうして比較してみると古い道がロープウェイと有料自動車道路に置き換わっているだけで、道自体は現在と変わりありません。ただ元名石切り場付近だけが地図から跡形もなく消えてしまっています。

元名と金谷で何が違うのか、ヒントを求めて資料をあたってみました。鋸南町史は確認済みですので、大正15年に刊行された安房郡誌から保田町の記述を探してみました。

本町民は農を生業となし、漁商之に次ぐ。農家の副業として養蚕・牧畜 甚だ盛況を呈せり 林産・石材の産も亦莫大なり。當町は地理上の好位置と鋸山の影響とにより、商業も逐次活氣を呈しつつあり。
本町には妙本寺・日本寺の名刹あり。名勝鋸山は日本寺・五百羅漢を以て知らる。常に登山者絶えず、近年鋸山のために本町は益々發展の傾向にあり。

日本寺の玄関口は元名にあり、戦前は保田からのルートが観光のメインでした。前回考察の通り、元名石切り場は日本寺をよける形で大正時代に車力道が変更されており、鋸山観光の盛況と震災による石切り場の崩壊が鋸南側の石材産業衰退の原因と考えられます。(コンクリートの登場で石材の需要自体も昭和になってから減少して斜陽産業化)

昭和14年に日本寺は火災によって殆ど燃えてしまい、戦争の時代を経て荒廃、大仏の修復は昭和44年に完了しましたが、本堂などは2021年現在も徐々に復興中となっています。

しかし、戦後の鋸南町は首都圏の海水浴客によって膨大な数の観光客が流れ込みます。消失した日本寺の代わりに海水浴という観光資源があったために、日本寺の整備が必ずしも優先されなかったのでしょう。

一方、金谷には鋸南町のような海水浴場がありません。海水浴の需要が期待できず、斜陽化した石材産業に期待もできない金谷は登山道、ロープウェイの整備を行い、荒廃した日本寺に代わって鋸山の玄関口の地位を勝ち取るに至った。こういうストーリーが思い浮かびました。

バブル崩壊後、鋸南も金谷も観光客が激減して寂れていきましたが、SNS時代になった2010年代から写真に映える産業遺産としての石切り場が人気となって活気が出てきた金谷と、海水浴に代わる観光資源を見つけられない鋸南で明暗が分かれた感があります。

もし元名石切り場が復活して鋸山の南北が一体となった観光スポットになれば、面白いことが起こると思います。

現在の鋸山観光は日帰り登山がメインになっていますが、元名に迫力ある石切り場があるとなると1日ですべてを巡ることができなくなります。ここがポイントです。

ディズニーランドは顧客の平均滞在時間で、全体の80%を見られるように決められたという話があります。(参考)現状、登山をして山頂は見たけど、時間が無いから大仏を見ないでフェリー乗り場に引き返す観光客というのは少なからずいます。

鋸南側に人が下りないので元名/保田が寂れたままですが、元名石切り場が見学コースに入れば、1回目は金谷で2回目は保田、というようにリピーターが増えやすくなります。もしくは元名で宿泊して1泊2日で鋸山を楽しみつくすというパターンもあるでしょう。

観光客の動線が変われば金谷に集中している人流が、保田にも流れてくるルートが作られることになります。そうなれば町に面白い変化が起こると期待しているのです。